チンクエチェントの物語 第2回
偉大なる小さなチンクエチェントの起源
掲載日:2003年2月26日

チンクエチェントについて語る前に、このクルマの偉大なる開発者ダンテ・ジャコーザ氏について簡単なプロフィールをまとめます。
それは、このすばらしいクルマも、氏の才能なくしてはあり得なかったからと考えるからです。
チンクエチェントの登場は、1957年。
イタリアには、まだまだ敗戦の陰が色濃く残っていた時代です。
このクルマは、そんなイタリアの人々に夢と希望をもたらし、イタリアの経済復興にも大きく貢献し、それから約20年の長きにわたり400万台近くも製造されていくことになります。
まさに“小さな偉大なクルマ”といっても過言ではないでしょう。

ジャコーザ氏は、1905年1月ローマで誕生されました。
貧しくも勤勉な家に育ち、後にチンクエチェントの開発に繋がるヒントを幼少時から身につけていきます。
「何も無駄にしないこと、服や本など役に立つものはできるだけ長く使わなければならない、ということを学んだ」と後年語っておられます。
このことがチンクエチェントの設計コンセプトに反映されている事は疑いがありません。
またイラストが好きで、暇を見つけては本のイラストを描いていたそうです。
そして引っ越し先のアルバで高校を卒業する頃、偶然か運命か、ユニークなクルマ好きと相次いで知り合っています。
自分のガレージでクルマを組み立ててしまうエンジニア、バイクで旅行に連れて行ってくれるエンジニア。
クルマはもちろん、バイクも珍しかった時代です。
多感な時代に出会った彼らの影響が、氏の後年を決定づけたといっても過言ではないようです。
一緒に過ごしているうちに、自然とエンジンやモーターの知識を身につけてしまったのですから・・・。
そして1927年『トリノ工科大学』を卒業された後、兵役を経てフィアットの前身である『SPA』に入られます。
そこで軍用車の設計、さらには航空機の設計にも関わり、徐々に輝かしい業績をあげられていくことになります。
付け加えると、就職に際して、氏は当初タイプライターの世界的企業、O社に“内定”していたそうですが、諸般の事情で『SPA』に入られたそうです。
幼少時からの環境、そして就職の縁・・・。
もって生まれた才能にいろんな偶然が重なり、氏は後世に名を刻まれる『フィアット社』の名エンジニアになられ、『トポリーノ』『セイチェント』そして『チンクエチェント』、さらに、『124』『126』等、忘れられない多くの名車を世におくり続け、私たちを楽しませてくれることになっていったのです。
「私は、新しいモデルが生産に移る前から、次のクルマに思いを馳せている。
絶えず新しい技術を求めているのだ。技術者は未来に生きなければならない。」
(ダンテ・ジャコーザ)

以下次回に続きます。

 
晩年のジャコーザ氏をオフィスに訪ね、対面する博物館の『イタリア通信』でお馴染みのアンドレア氏。このときには日本のチンクエチェント事情について、たくさん語っていただきました。 今は亡きジャコーザ氏の家を守る、氏のお嬢さん。彼女が手に持つのは『フィアット500クラブイタリア日本支部』のフラッグです。(クラブの日本支部スタッフが訪ねた時のものです)

 
生産時代の写真。出荷を待つムルティプラとジャルディニエラ。思わず「いいな〜、一台でいいから・・・」なんて思っちゃうでしょ。それにしても最盛期はすごかったんですね。 今でもこんなに可愛がってくれるファンが大勢います。クルマもしあわせですね。
(ガルレンダのナショナルミーティングから)

*資料と写真協力=フィアット500クラブイタリア
*本記事と写真の無断転用はお断りします。